今日のテーマはヨーロッパに進出、活躍した選手の話をしていきたいと思います。
中村俊輔が小学生の時他のマリノスではない地域の少年団のチームでプレーしていました。
その当時プライマリーという4種の年代のチームの監督をしていて
俊輔のチームとも何度も対戦した覚えがあります。
凄くボールコントロールがしっかりしていてとても柔らかいプレーをしていました。
一人二人かわしてフィニッシュもしくはラストパスというようなプレーを
沢山見せてくれていた左利きの選手でした。
横浜選抜だとかそういう機会もあって、マリノスのグランドで何回もプレーを見ていたので、
ジュニアユースに入ってきてくれたらいいなー!
という風に思ってました。
その当時、横浜市の選手は目標としてくれていたマリノスに入ってきてくれた訳ですが、
その中でチームでは優位に立っていた、技術的な部分それだけではマリノスに来て練習して、
または、マリノスがやる練習相手が読売だとか、ベルマーレだとかそういうチームとやると
ちょっと見劣りする所が出てくる。
それは身体的な所またはスピード的な所、そういう所は中学生時代で当然であること、
ようするに発育のペースが違う、
どの年代で一番大きくなるのが小学生の時に大きくなる、
これは小学生の時代としてはとても優位に働くわけです。
『大人が一人入ったようなプレー』
と表現されますけど、大きい選手が入るとサッカーそのものが変わってくる、
ただそういう選手がそのままずっと順調に中学生、高校生と大きくなっていくかというと、
そうとは限らない、限らないというかそうではないというケースの方が多いのです。
どんどん中学、高校で身長は追い抜かれ、
スピードも頭打ちという様な状況になっていくことがよくあるのです。
俊輔が小学校を卒業してマリノスに入ってきた時に小さい方の部類になり、
スピード的にも遅い方技術はあるけど判断が遅いと体を寄せられてボールを奪われる、
というような事が顕著に表れるようになります。
中学生時代の彼の自伝だとか彼を特集した本にも書いてありますけど、
不遇の時代…とても辛い…。辛かった時代と表現してますけど、
彼は、3年間通して一番早くグランドにでてきて一番最後まで残って、
ほとんど練習も休まず腐ることなく3年間やり通しました!
最後の3年生の時に彼は10番を付けていましたけど、
全国大会決勝の舞台、残念ながらベンチに入れる事はできませんでした。
というのも、その当時やっていた全国大会がまだクレーのグランドで、
予選リーグからずっと雨が降ったり、止んだりというような状況で、
ぬかるんだコンディションで彼が非力な状態で活躍できるような
ピッチコンディションじゃありませんでした。
雨の時にベチャって止まったボールをトーキックでみたいなやれるほど
開き直ってプレーできるタイプではなかったので、彼の出番は少なくなってしまった。
そういうことで、『とても辛い3年間だった』という風に彼は振り返っていますが、
その間努力して一生懸命やろうとしてたということは私の眼にはしっかり焼き付いてるし、
先程言ったように『練習の虫』早くでてきて一生懸命キックの練習、
自主練で残ってフリーキックの技は
あの時点でもう超一流でした!
それは練習の賜物だったというわけですね、
最初から蹴れるわけじゃないので自分の技を磨いていった土台は
あの当時作られたという風に思ってます。
よく話題になるユースへ行けなかった話は、
毎年中3の夏に面談をするんですけどお母さんと本人と三者面談をするんです、
『このままではプロになれないよ』『ここから一層の努力をしないと』
という話をしたわけですが、実はこのフレーズはユースへ上がる予定の
3年生全員に伝えてました。
ただ受け取り方が全く違って
『もうプロにはなれない』『もうだめだ』と言われたとお母さんが受け取ったようで
それは、後で俊輔本のはしり一番最初に出した本を発行した記者の方から
話を聞いたんですけれども、お母さんは確かにそう言ってたと…。
でも私自身がそれを言ったことは間違いないのでその事自体間違いじゃないんですけど、
他の選手達は『はい、分かりました』
という事でユースで一層の努力をして
そしてマリノスユースからトップというように上がっていく選手、
他の高校へ行ってプロになった選手、
何人もいますけどその真意がしっかりと伝わらなかったというのが真相です。
ただ、桐光へ行って新しい境地、高1の時は一生懸命ボール磨きをしていた、
まだ身体も小さいし高校生と対抗出来るというような状況ではないと
今までもずっとサッカーをして、そういうような環境の中でやってきたんだけども
高校1年生の頃は、秋ぐらいまでボール磨きを一生懸命やっていたようです。
ただそこで転機は訪れる!
身長が伸び始めたんですね。
こういう話も中学の時に話したんですが、
お兄さんが甲子園球児、2番目のお兄さんが全日空のユースにいました。
この二人を見た所本人よりもずっと大きいし3番目(俊輔)がということで、
もしかしたらお兄さん達よりも大きくなるかもしれないということで、
今、小さいけれど必ず高校になったら伸びるからということを話しをしてました。
ただ本人曰く大きくなるかどうかはその時になってみないと分からない…
ずっとマリノスユースにいてまた中3と同じように高3になった時に
ベンチにいるのはいやだという風に言ったので、
じゃあ高校を探そうということで、
いくつか練習に参加して最終的に桐光学園に決めたという形です。
そういう形で送り出してるので高校で大きくなって活躍する、私の眼からは当たり前の事でした。
その中で全国大会に2年連続で出ると注目度がグッと上がって皆さんから
プロに…ということで誘われるような存在になった。
その頃に、高校3年生の夏頃ですかねインターハイ終わったくらいにマリノスのスカウトが
『野地さん!俊輔取りに行っていい?』
と聞かれたので『え?なんで?』『なんでそんな事聞くの?』と言ったらば、
『だってマリノスユースに上がれなかったんでしょう?』とその当時確認されました。
『そんな事ないけど、そんな風に言われてるけどね、そういうことじゃないよ、
もしうち(マリノス)に来るって言うんであればそれが答えじゃないの?』
って話をしたのが思い出されます。
最終的にリベンジとかっていうことも言われてましたけれども、
本人そういうことではなくて、マリノスで活躍したい!と素直に思ってくれたようです。
その後レギュラーポジションを取り活躍していくわけですが、
その頃に練習を覗きに行った事があるんですけど、
トップの練習が終わった後にGKを捕まえてシュート練習、
フリーキック練習相変わらずその時点でもやってました。
そんなことを繰り返しながらやっていく中で
将来スペインに行きたいということはもう中学生の頃から言ってました。
私自身は、中学生に『Jリーグを目指すのではなくヨーロッパのクラブを目指せ!』
と当時から指導していましたので
『いいんじゃないの』マリノスと契約する時にそれを条件に入れてたかどうかは
はっきり分かりませんけど海外に行きたいという事は言っていたようです。
イタリアからスタートして最終的にスコットランドで活躍した上でチャンピオンズリーグ!
伝説のマンチェスターU戦のフリーキックが決まるわけですが、
そういう中で彼が今でもプレーを続けていられるのは
サッカーに対する情熱、真摯にしっかりと向き合って努力してきた成果だと思います。
トルシエジャパンに最終的に選ばれなかった時、悲しい思いをしたと思いますけれども、
ジーコには認められて呼ばれて、ワールドカップも経験する事が出来ました。
選手全盛期の頃は、指導者は僕は向かないのでという風に言っていましたが、
最近、指導者に興味を持ってきているようなので今後俊輔二世、三世という形で
色んな選手を育ててくれるのを期待しています!